日いずる国の経から紐とく 日月神示 下つ巻 二十二帖 あいカギ

 

 

の門  ナムチのゆめの泡       

 

 ひつく神示には天と地が「グレンとひっくり返る」という表現がありますが、これは諺であるように、あの世とこの世は「逆さごと」という、あの世と私たちに映し出された物質世界では価値観が逆さのように異なってるとも伝えられています。

 その逆さまの価値観とは「持つものはそれを失い、持たざるものはそれを得る」とか「なにも持たずにこの世に生まれ、なにも持たずにあの世へかえる」だとか、キリストのいう「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という駱駝の針孔の喩えに近いものがあるのかもしれません。

 そして日嗣神が示した日月神示には『グレンとひっくり返る』という言葉と『北から攻めてくる』『イシヤ』という言葉は実際には密接に関係しているのですが、これを日いずる国の経・六の月の兎と駱駝の針孔の章にあるビジョンから喩えて紐解いていきます。

月の兎と駱駝の針孔に記述したように

『私は=個人=全体である総て、という真実を観照する気付きである。という真実に対しての自身の内にあるその隔たりがなくなり合致した』

とあるように個と全体、個我と真我、陰と陽、この世とあの世を一致するような閃きのなか~~~

玉屋鍵屋

「橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし」

「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」

 こんな調子で一つの鍵穴を合わせるようにした後に物質世界から暗闇に浮かぶ点、光源に飛び込むのですが、この描写の時に私自身が賜った行いとして『日いずる国の経・六』にあるように、仏の示した目指すべき涅槃の方角である北に頭を(上を示す)、足は南に向けて(下を示す)床に入ったのでした。

 そして古事記に登場する山幸彦と海幸彦の釣り針の形を暗示する北斗七星が示す北極星の光の点に向かうように

『その点が次第に「私に向かって」なのか「私が向かって」なのかは定かではありませんでしたが点はゆっくりと徐々に近づき、うさぎが月を眺め、そして月に飛び込んだかのように私の意識はその点に溶け去りました。』

 というように鏡に映る主が、映される側とどちらが本物であるのかわからなくなる様に相反し反転するビジョンの後に冥府の世界が私に開かれ映し出されていくのと同様に、この世とあの世、表と裏がぐるりとひっくり返り現れるのですが、2009年の私が当時そうであったように、気づきが薄ければ既に鍵は開かれているということに気が付きにくいかもしれません。

  この後に冥幽にお隠れになったと伝えられる、因幡の白兎を助けた出雲の大国主、『日いずる国の経・七』を閲覧された方はもうお分かりだと思いますが、生と死、善と悪を別け司る右左義の神は誰一人例外なく、心の内に在る輝ける素の神として表に現れるのです。

 そしてあの闇に浮かぶ点の光源からシャンバラは開かれますが、その時に紛れるようにして門から入った者の生前に残された不浄がそのまま「北から攻め入る」という表れとして『日いずる国の経・九』に記された巨大な龍は上空で四方八方に米の字の如く燃え移り、儚くも美しく散りゆくその光景が相反されて映し出されるかのように、災いとなって世に患難が起こったようにみえる次元が冥府で浄玻璃鏡により露になる6番目の段階で最も裁きは顕著となり、7から8番目の段階に至るとようやく汚染された自我の迷妄が光明によって拭い去られます。

 おわりの時にはこのような心の反射のような原理があるので日月神示では心の洗濯、心の浄化の重要性を伝えているのですが、これは以前の記事でもニサルガダッタ・マハラジの言葉で「衝撃が少ないものはある意味、優秀と言えるのかもしれない」という言葉を残されましたが、良いこと悪いことと言う、青い眼鏡や赤い眼鏡をかけて見た考えや想いによって脚色された物差しではない無垢で清浄な心であれば、この相反する力は互いに消失して過ぎ去り、難を少なく本来の自身の姿を見出すのかもしれません。

 

 ひつく神示の天つの巻、二十七帖では「北が光り、北がよくなる」という全く逆のような内容の記述もあります。

 これは一見矛盾した内容にみえますが、これらのことも空では月と太陽が互いに追いかけあうようにして巡り、生と死の狭間のような日蝕と月蝕でしか互いが出会あい重なりあえないように、月から観た太陽、太陽から観た月は黄泉国での伊邪那岐命と伊弉冉命や高天原での素戔嗚尊と天照大神、陰と陽の互いを思いあう愛情がやがて下降するように愛と憎しみへの分離という矛盾した力となって、結果として苦しみの伴う私たちの世界を創り出す動力となり、その本性は同一でありながら相反しうるという顕れの波をただ言語化した対極的表現のようでした。

 

 先の記事でも記したように、微細な観点かみれば銀河のような塵である石に、私たちは自らの想いを投影させた物質世界に生きながら、この石を通じた物質世界に閉じこめられているかのようです。

 しかし「世界の中に私がいるではなく、私の内側に世界がある」という真理から観れば、無数の塵である石に投影された輪の中で流転し、自分自身の本質を忘れてしまったために石の中に閉じた自らの心に改めて『私は誰か?』と問いかけて探求することで、かつてキリストがペテロ(岩の意)に授けた天国の鍵により天の石屋は開かれ、旧約聖書の神であり私たちの本性である、まことの神『I AM THAT I AM』『我は 有りて在るもの』という至高の神のもとに、再び総ての民が帰還することを私は確信しています。

つづく

                                                                 

 

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