日いずる国の経から紐とく  傲り高ぶる支配者と伊都之尾羽張

おわりの時

 今回は紐ときの最後の記事として2009年と2016年に私自身に起こった二度の体験で見え隠れするように現れた、傲慢で破滅をもたらす天魔について記していきます。

 2009年の日いずる国の経・二『青く冷たいほど澄んだ世界』の章に記された、世界が青くなり、自然と沸きあがる知識とこの世の超越感に

「すっかり私は以前の苦悩していた頃の自分を忘れ、新たな知識に得意げになり、その高揚も積もって次第に興奮しはじめていることに気づきました。」

とあるその存在は、2016年では日いずる国の経・八『裏切りの思いの泡』の章で、『無垢で清らかな存在』を自身の無明のために恐れを抱き、思いによって清浄な主を断ち切ってしまった後に

「この時からその存在は私の内から消えたのですが、それから再び7年前に経験したような高ぶった感情が、徐々に湧き上がってくるように現れてきていることに気づき始めたのです」

 とあるように、09年と16年のこの二つの体験から共通する事柄として、寂静を象徴する青い光景のあとに傲り高ぶるその存在は次第に顕著に現れ、ゲヘナは開かれるのですが、09年ではその後に現れる憤怒の象徴である赤い炎は頭頂からマグマが降り注がれ流れ落ちる地獄のような体験へと移行し、16年では丹田に凄む龍が頭頂から駆け登り、上空で米の時の如く四方八方に燃え移ったその後に言葉では言い表せない無間地獄の強烈な光景が現れるという体験が起こりました。

 このことは青と赤を象徴する中間点でその存在は顕著になり、この傲り高ぶる支配者は至高神の威光によって隠れる場所がなくなるかのように私たちの前に露になります。

 世の快楽的楽しみを司るこの偽りの支配者は六欲天にあり、つまり浄土国、みろくの世到来以前の祓われるべき自我意識から表れるのですが、この顕現の六根にたいする不浄と迷妄が露になる事によって、その6番目の景色で益々その穢れは祓われて力尽きてゆき、六つの根が清らかになるまでの7番目の境涯で虚空を見出すまでは、その活動がある意味では許されていると言うことが出来るのかもしれません。

 私たちは自身の心をただ観察し続けることで、この6番目から7番目までの階梯で露になる他即一の表れでありながらも煩悩の闇を纏ったこの存在「他=私」厳密に言えば他化自在天の影とも言える天魔は、私の上に神はいないという無明によって、総てに対して「私こそが」というその存在性に自惚れする特徴があり、それはグノーシス主義で言う偽りの神ヤルダバオートともデミウルゴスの様なこの存在は、潜在意識のもとで私たちの心に自我を強調させ際立たせることによって民を分裂させ混乱に陥れます。

 そしてこの顕れは本来の私たちの本質である純粋意識に気づかせないように手品師のように幻影を見せ、岩で戸を塞ぐように私たちが物質的価値を求める世界から離れる事が無いように努めています。

 しかし実際にはこの存在の力の所有者は私たち自身であり、個人の心の内に潜む穢れ、垢が集合意識から傲り高ぶるものとして顕現するのです。

 この事にたいして私たちができることは、自身の心の内にある傲慢な想いや虚栄心からくる比較の天秤をただ注意深く気づいていること、観続けることで、内側に潜むその力は次第に弱まり、外側に投影されて見える鏡世の様なこの世界でも、その高ぶる傲慢な現れは次第にその力を失速させながら、そして力を失うがゆえに益々露になるというのが道理のようです。

 私自身に起こったバルド・トドゥル(中有)での体験を通じて理解したことは、心に自我が芽生えて以来、潜在意識下で長きに渡り共に歩み続けてきた「苦しみを避けたい、喜びの多い人生を送りたい」という思い、誰もが願うごくあたり前の想いと行為の蓄積が、次第に右側だけを愛し左側を疎かにしてしまうかのように傾き、その反対のものを退けて喜びや楽しみを求め続けたことによって、かえって苦しみを際立たせてしまうことを観てきました。

 そして皮肉にもその繰り返しによって、喜びと悲しみの振れ幅は広がり、その振れ幅がさらに個としての「私」という存在性、自我をより特徴づけてしまい、ほんとうはただ心によって自然に現れては過ぎ去っている事象をその人自身の考え、都合によって辻褄を合わせながら「私」の見渡せる世界を生きていたいと願っているのですが・・・それは幻の様なものだったのです。

 地獄の閻魔庁には生前の行いを露にして映し出す浄玻璃鏡があると言われます。

 この鏡は、鏡によって映し出されたその人自身の罪を大王が裁くというよりも、浄玻璃鏡によって自身の穢れを認識し辱められながら自らの業に報い、強烈な光景である地獄の沙汰で自身の業により自ら裁き、裁かれるようにして反省を促すようです。

 このことから見方を変えて観れば、六欲界の主である天魔波旬、インド神話ではインドラの友人でありながら不倶戴天の敵ともいわれるナムチや西洋では滅びの子といわれるその顕現も、自身の心の鏡のようになって知らせてくれる存在でもあると言えます。

 このことを知って、ブッダやキリストが悪魔の囁きを祓ったことから学んで、退けることは退けてもなお、闇という役割があるからこそ、時の移行の中で光の恩寵を賜ることができるという理解のもとで心に憂いを抱きながらもその境涯を過ぎ去って、生まれや死、善や悪という因果を越えたところに浄土国は過去、現在、未来に現れ続けているのです。

。。。 。。。。。 。。。。。。。 。。。 。。。。。 。。。。。。。 。。。

 

 さて、日いずる国の経は年末年始にかけて意図することもなくはじまりましたが、この辺りでどうやら終わりのようです。

 これまで私たちの心の本性や、死後の世界に関する中有のこと、浄土国である弥勒の世に関わることは途方もない時を経て、神仏よりこの世の器を通じて宣べ伝えられてきました。

 この日いずる国の経に記されたことは特別に目新しいことはなく、天では既に起こった出来事なのですが、これまでは伏せられて表現されていた事をここまでストレートに記されたことに正直驚きを感じています。

 私に起きた2009年と2016年の二度の体験のうちで、どちらかと言えば二度目の方が遙かに厳しいものでしたが、09年に私に体験した出来事は、後の16年に起こったことにたいしての知恵と耐性になっていたことは事実でしたので、死に対して過剰に考える必要は決してありませんが、その心の備えは今生をより豊かにしてくれるものです。

 いずれは早くとも遅くとも、個々それぞれの寿命の時やカリ・ユガのような全世界の寿命は訪れます。その時にこの「日いずる国の経」が少しでも皆さんの役に立ち、十字の世で総ての靈がこぼれることなく、私のような小さな者にも慈悲深く道を示してくださった まことの神の御座します 不二の国土に結ばれて、涅槃に留まれますように。

                          

  令和 六年 二月二十二日

                                   勝 田 誠

 

 

 

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日いずる国の経から紐とく 日月神示 下つ巻 二十二帖 あいカギ

 

 

の門  ナムチのゆめの泡       

 

 ひつく神示には天と地が「グレンとひっくり返る」という表現がありますが、これは諺であるように、あの世とこの世は「逆さごと」という、あの世と私たちに映し出された物質世界では価値観が逆さのように異なってるとも伝えられています。

 その逆さまの価値観とは「持つものはそれを失い、持たざるものはそれを得る」とか「なにも持たずにこの世に生まれ、なにも持たずにあの世へかえる」だとか、キリストのいう「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という駱駝の針孔の喩えに近いものがあるのかもしれません。

 そして日嗣神が示した日月神示には『グレンとひっくり返る』という言葉と『北から攻めてくる』『イシヤ』という言葉は実際には密接に関係しているのですが、これを日いずる国の経・六の月の兎と駱駝の針孔の章にあるビジョンから喩えて紐解いていきます。

月の兎と駱駝の針孔に記述したように

『私は=個人=全体である総て、という真実を観照する気付きである。という真実に対しての自身の内にあるその隔たりがなくなり合致した』

とあるように個と全体、個我と真我、陰と陽、この世とあの世を一致するような閃きのなか~~~

玉屋鍵屋

「橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし」

「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」

 こんな調子で一つの鍵穴を合わせるようにした後に物質世界から暗闇に浮かぶ点、光源に飛び込むのですが、この描写の時に私自身が賜った行いとして『日いずる国の経・六』にあるように、仏の示した目指すべき涅槃の方角である北に頭を(上を示す)、足は南に向けて(下を示す)床に入ったのでした。

 そして古事記に登場する山幸彦と海幸彦の釣り針の形を暗示する北斗七星が示す北極星の光の点に向かうように

『その点が次第に「私に向かって」なのか「私が向かって」なのかは定かではありませんでしたが点はゆっくりと徐々に近づき、うさぎが月を眺め、そして月に飛び込んだかのように私の意識はその点に溶け去りました。』

 というように鏡に映る主が、映される側とどちらが本物であるのかわからなくなる様に相反し反転するビジョンの後に冥府の世界が私に開かれ映し出されていくのと同様に、この世とあの世、表と裏がぐるりとひっくり返り現れるのですが、2009年の私が当時そうであったように、気づきが薄ければ既に鍵は開かれているということに気が付きにくいかもしれません。

  この後に冥幽にお隠れになったと伝えられる、因幡の白兎を助けた出雲の大国主、『日いずる国の経・七』を閲覧された方はもうお分かりだと思いますが、生と死、善と悪を別け司る右左義の神は誰一人例外なく、心の内に在る輝ける素の神として表に現れるのです。

 そしてあの闇に浮かぶ点の光源からシャンバラは開かれますが、その時に紛れるようにして門から入った者の生前に残された不浄がそのまま「北から攻め入る」という表れとして『日いずる国の経・九』に記された巨大な龍は上空で四方八方に米の字の如く燃え移り、儚くも美しく散りゆくその光景が相反されて映し出されるかのように、災いとなって世に患難が起こったようにみえる次元が冥府で浄玻璃鏡により露になる6番目の段階で最も裁きは顕著となり、7から8番目の段階に至るとようやく汚染された自我の迷妄が光明によって拭い去られます。

 おわりの時にはこのような心の反射のような原理があるので日月神示では心の洗濯、心の浄化の重要性を伝えているのですが、これは以前の記事でもニサルガダッタ・マハラジの言葉で「衝撃が少ないものはある意味、優秀と言えるのかもしれない」という言葉を残されましたが、良いこと悪いことと言う、青い眼鏡や赤い眼鏡をかけて見た考えや想いによって脚色された物差しではない無垢で清浄な心であれば、この相反する力は互いに消失して過ぎ去り、難を少なく本来の自身の姿を見出すのかもしれません。

 

 ひつく神示の天つの巻、二十七帖では「北が光り、北がよくなる」という全く逆のような内容の記述もあります。

 これは一見矛盾した内容にみえますが、これらのことも空では月と太陽が互いに追いかけあうようにして巡り、生と死の狭間のような日蝕と月蝕でしか互いが出会あい重なりあえないように、月から観た太陽、太陽から観た月は黄泉国での伊邪那岐命と伊弉冉命や高天原での素戔嗚尊と天照大神、陰と陽の互いを思いあう愛情がやがて下降するように愛と憎しみへの分離という矛盾した力となって、結果として苦しみの伴う私たちの世界を創り出す動力となり、その本性は同一でありながら相反しうるという顕れの波をただ言語化した対極的表現のようでした。

 

 先の記事でも記したように、微細な観点かみれば銀河のような塵である石に、私たちは自らの想いを投影させた物質世界に生きながら、この石を通じた物質世界に閉じこめられているかのようです。

 しかし「世界の中に私がいるではなく、私の内側に世界がある」という真理から観れば、無数の塵である石に投影された輪の中で流転し、自分自身の本質を忘れてしまったために石の中に閉じた自らの心に改めて『私は誰か?』と問いかけて探求することで、かつてキリストがペテロ(岩の意)に授けた天国の鍵により天の石屋は開かれ、旧約聖書の神であり私たちの本性である、まことの神『I AM THAT I AM』『我は 有りて在るもの』という至高の神のもとに、再び総ての民が帰還することを私は確信しています。

つづく

                                                                 

 

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日いずる国の経から紐解く マイトレーヤ

弥勒というマイトレーヤの神輿

 

 今回の記事では日月神示で言及されている『北から攻めてくる』や『石屋』について、このビジョンがどこから表れているのかを日いずる国の経の観点から紐解いていくその前にマイトレーヤについて簡単にですが記していきます。

 終末世界とその後に訪れる神国を示した書物は世界中に残されていますが、この様な靈的書物には一定の共通したビジョンや数靈によるパターンが記されています。

 日月神示やヨハネの黙示録のような終末描写の色濃い啓示や、聖書のメシア、ヒンドゥー教の10番目のアヴァターラ・カルキのようなメシアの再臨を預言する聖典がありますが、これらの啓示は友であり約束の主であるマイトレーヤとその眷属のもとより世に示されてきました。

 その主な目的は、以前の記事に取り上げた日いずる国の経から紐解いた、第六地のビジョンである此岸から第八地から第十地まで広がる神国、彼岸に渡るまでに心の映る衝撃を事前に知ることによって迷うことなく、より難を少なくするための慈悲と救済の聖典として、この現代まで世界各国の覚醒の純度の高い覚者の器に、またある時にはあえて覚者ではなく、覚醒への準備を高めている器のもとにも降ろされてきたと言えます。

 この『器』についてもう一歩踏み込んで言えば、勿論これは良いとか悪いという比較からの意味合いではなく、覚者の『器』とは出口王仁三郎氏のような真理を体現した器と、その真理の体現の過程を進む岡本天明氏のような器の違いがあります。

 真に神人合一を体現した器には、至高神から降ろされる情報をストレートに授受する処理能力が備わりますが、準備、発展段階の器では高次の神の啓示にたいして処理する力が弱い為、降ろされた内容の理解の不足や情報伝達の濃度の違いや、時に低次に住む霊もしばしば現れることもあります。

 そうした意味でみれば発展段階であった岡本天明氏に常世より降ろされた日月神示の完成度は稀とも言え、ご本人の心の状態も少なからず反映していたために全体的に苦味の多い表現が際立ってもいますが、示された幽世の構造と数靈は道理の範疇にあることを観ることができます。

 このことから日月神示は、あえて浄化の発展段階である魂に啓示を降ろすことで反映される粗削りな表現によって私たちに心の洗濯、浄化を強く訴えるように方向付ける書だったとも言えるのかもしれません。

 

 そして覚醒の魂、覚者といわれる器は光明を感得した後にその体の寿命が残されている期間のあいだは、前記事に記した十地経の各レベルのように、その覚醒の純度と器の性質により各階段にアヴァターラとして十の梯子の如く登るべき道と景色を私たちに示してくれています。

 末法の時代では覚者は非常に少くなりますが、再臨を宣言する約束と友愛のマイトレーヤは覚醒の器を媒体として世に現れ途絶えることなく、ほんとうの三種の神器の納まる契約の箱は真我という真意で覚醒の器に現代までしっかりと日嗣がれてきたのです。

 この宣言の主、マイトレーヤは旧約聖書のメシア、ヨハネの黙示録のキリストの再臨やイスラム教のシーア派・12イマーム派のムハンマド・ムンタザルによるマフディーのガイバ (主のお隠れ)や私たちの国では出雲の大国主の幽世へのお隠れと、国常立尊の再臨を「三千」というかたちで、過去、現在、未来を一つに総べるという宣言をしてきたのですが、近代でも世に継ぎ示すためにマイトレーヤが顕著に表れた例としてジッドゥ・クリシュナムルティOsho  出口王仁三郎氏、などの覚者のもとでその痕跡を残してきました。

 そして東方の星教団を離れたクリシュナムルティは個から縁覚である辟支仏までの階梯を主に私たちに示してくれましたし、その後の縁覚からの階梯をニサルガダッタ・マハラジの弟子であるラメッシ・バルセカールなどの覚者が第八地以降に相等するのその境涯を、Oshoについてはチベット仏教・カギュ派のカルマパ16世からOshoについてマイトレーヤとの合一を予見するような言葉を残されており、Oshoの魂は彼のサニヤシンと共に天河神社や、おおもとの出口家、出口春日さんとの縁を結ばれて現代でもみろくであるマイトレーヤにたいする意志は受け継がれているようです。

 Oshoはマイトレーヤの再臨を宣言しましたが、彼は非常に賢明であったのでマイトレーヤの再臨を「仏陀がマイトレーヤとなって」再臨するという彼らしい言いまわしで表現をしましたが、これはちょうど先の記事に取り上げた菩薩の52位の最高位である52位の仏陀の境地と51位の弥勒の境地からの理解から言及されています。

                              つづく

 

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日いずる国の経から紐とく 十地経とノアの方舟

 

 

紐解き3

 

 今記事では日いずる国の経・七にある「もう戻れない」と言う声と十地経の第六地、不還の位から第八地の縁覚と紐付ける記事を記していきます。少し難しいかもしれませんが、母の胎内の十月十日で養われて形成される胎蔵の智慧ように読者の方がこの記事に目を通されることで利益があれば幸いです。

 大乗仏教の華厳経にある十地経とは、目覚めの階梯として現れてくるビジョンを10の階梯で表しています。この十地は菩薩の五十二位という菩薩から仏までの階梯を五十二位で表した41位から50位までを位の中にあてはめることが出来ます。

 十地経はなかなか難解で掴みにくい所がありますが、この項では『日いずる国の経の観点から紐とく』と言う形でこの十地経に照らし合わせて紐といていきます。

 十地経ではその最上位の第十地、法雲地(菩薩の52位では50位に相当)の色界最上天である色究竟天で、大自在天が教えを説いているといわれ、その上にある菩薩の51位では弥勒の境地でもある等覚、52位を妙覚という仏の境地が示されています。

 そして本題の十地品では第七地の『遠く離れた地』を意味する景色があり、この第七の地では、それ以前の第六地と以後の第八地の境界のような特殊な場所であるとされています。

 第六地では日本的に言えば三途の川のような、西洋ではノアの方舟の洪水のような『6』に象徴される三途の川を渡るための六文銭(冥銭)や方舟の寸法60mなどに暗示さる領域になり、その第六地にはこの場を通る者の心に潜む、ヤマ(夜魔)が露になる天魔波旬リリスの面影と、裏切りの喩えとしての提婆達多イスカリオテのユダを象徴する存在が見え隠れしており、それに対して閻魔大王である牛頭天王がこの地を過ぎ去る私たちの心とその先の祇園精舎を守護しておられますが、この地以上は不浄、穢れを受け付けない為に、この地で穢れを流すように水を渡り第七地へ向かうのです。

 しかし第七地には下にあの第六地の水による大患難の因縁を備え、上には穢れのない清浄な浄土である不動の第八地があり、苦と喜の狭間から遠く離れた頂で空に沈み傾くという、この例えを旧約聖書から借りれば、「この世の全てが空しい」というコヘレトの言葉、インド神話ではヨーガ・ヴァーシシュタにみるラーマの失意のような虚無的な空理の陥穽に陥るという『七地沈空の難』があると記されていますが、「この時十方の諸仏が七種の法で勧め励ますので再び修行の勇気をふるいおこして、第八地に進む」と伝えられています。

 第八の地の『不動地』からは縁覚として浄土に住生しますが、その第八地から第十地まではこの世、物理世界という写し世で見れば、過去に失われた国土の象徴としてムー大陸のような光景に結び付けられるのかもしれません。

 第十地では大自在天が所在する天で十地経の記すところ

智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、無辺の功徳を具足して無辺の功徳水を出生して虚空を大雲で覆い清浄の衆水を出だすためにいう。平等の原理と差別の人間とが一体となった、平等即差別、差別即平等の真如世界』

という境地に私たちはその祝福と恩寵のもと住生するといわれています。

 これまでこの十地経は探究者たちの間では、第一地から第七地までと第八地から第十地との間には大きな違いがあると言われてきました。

 これは中有と子宮の神秘に隠された『十』に暗示される事象が十地経では、一地から十地までの表す景色の中で、上昇という観点からみれば一地から六地までに残されていた不浄が八地までの間に途絶えている。下降の観点からみれば十地から七地まで観られなかった穢れが六地から下の地に現れているという事になります。

 意識の揺らぎからはじまった世界の下降のプロセスと、意識の揺らぎ以前に戻るように上昇するプロセスとの2つの現われを、第3の視点で中間的に観照するという三位一体の視点、冥府の世界を照らす書である十王経、ヨハネの黙示録、等にみられる書物とはまた少し違ったアプローチで記したものが十地品となったのでした。

 そしてこれらの書物の意図は、遅かれ早かれすべての心に訪れる冥府で「とおりゃんせ」の童歌にあるように、造化三神、五柱、神世七代までの浄土国、『七五三』の数靈のうちにある光明の領域より下降しながら四方八方に広がりゆく六道に流転する私たちの心が、神国に再び帰還するためのその『細道』に明かりを灯して大難を小難、無難へと智慧によって降りかかる難を軽減させることへの願いにあります。

 

                              つづく

 

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日いずる国の経から紐解く 思金神と布刀玉命

 

紐とき 2 

生命の呼吸と さざれ石

 

 前記事で磐座信仰にふれた、日いずる国の経・七では、銀河の円環を廻る塵のような石に想い投影された私たちの生きる世界のことを記述しました。

 聖書でもアダムは土より作られたとあり、先のダニエル書にもありましたが聖書の世界観ではわれわれは塵から生まれたという事を言及しています。

 この言葉は私たちの住む現代の価値観ではとても受け入れられないかもしれませんが、仏教でもこの世界は仮の世界、仮想的な喩えのような世界だと伝えられてきたのです。

 この輪の中の360度を巡るあらゆる気質は私たちの意識の源、一成る神から呼吸のように流れ出る、銀河のような円環を廻る塵。
 無数の石にあらゆる思いを投影して輝く星々のように、この仮象の世界の中にかつて顕われ、その世界の中にあまりにも長いこと居続けたために心は次第に外側に魅了され内側を忘れて行くかのように、私たち自身の微細な心は次第に粗大な観点から動けなくなってしまい、もともとの本質を忘れてしまったのかもしれません。

 石とは言靈で観れば=意思とも表せます。石である岩の中に閉じてしまった天照大神の天の石屋は思金神(オモイカネ)の智慧から岩戸開きは行われますが、江戸時代の国学者、本居宣長は『古事記伝』のなかで「思金」という語について「数多(あまた)人の思慮(おもんぱか)る智を一(ちをひとつ)の心に兼持てる(かねもてる)意なり」という一即一切と言う語を思いださせるような解釈をしています。

 また、このことは日いずる国の経の十では構造上、情報過多を避けるために言及しなかったのですが、「この日いずる国に経を降ろしに来た」と言われた国を開いた神の現われの後に兄弟への応答の中で、神への疑念や行いにたいしての問いかけにたいして私自身の氣質が少々荒くなり「私が小石を集め投げて、それが落ちて、どのような位置に星が置かれたのかを観るように、私は私によって四方に散った心のありようを、その動きと定められた配置によって知っているし、見ている」布刀玉命にみる太占、ト占や星占術を想起させるような特徴的な表現での返答があったのでした。

 このビジョンの時に私は至高神の御許に在り、この冥府の素の神、石に投射された無数の生命の呼吸のビジョンと共に見出していたのでしたが、思金神と天児屋命、布刀玉命のような神々の波長が多面的に、この同じ常世の時の中で現れていたのでした。

 そして現世である、この私たちの知る世界では思金神は阿智氏布刀玉命は忌部氏へ天児屋命は中臣氏,卜部氏 等の神々の系譜は様々な氏を通じて現代へと確かに引き継がれています。

 このような根本的な宇宙次元の光景が意識の深層にあり、磐座信仰や環状列石と言う顕われの投影として現世では、過去である私たちの未来の面影を鏡のように映し出して、知らしめてくれているのでした。

 実はこの当時、私は仏教やインド神話には目を通していましたが、日本人でありながら古事記の内容や思金神や布刀玉命などの神々をほとんど知らなかったのです。
 そのことから、古事記の内容と言うのは先に自身の神秘体験が先行していた為に、後になってその内容は私にとってより説得力をもって理解することができ、時に愛らしいユーモラスな表現でありながらとても奥深いこの書物に信頼をおくことになりました。    

 また同様にこの観点からみれば、磐座信仰や天磐船神話も道理的に映るのかもしれません。

 古事記に関しては、歴史的な流れの中で時の為政者よってその側の都合に良い解釈に改ざんされているという考察もまれに聞かれますが、神のもと主宰されている世界では常に二極から広がる時の運動があります。

 ヨハネによる福音書、5章には「わたしの父は今もなお働いておられる。」と言う言葉は神の独り子=独神を示した、かつてのファティマヤチンタの言う「隠れたイエス」の言葉ですが、そういった意味でも神の書物と言うものは、仮に時の為政者の働きがあり、局所的にはそうであったとしても竹内文書や宮下文書、九鬼文書などの外典とされる文書、はたまた西側でもみられる新約聖書に対するユダの福音書やトマスの福音書のような外典や死海文書などを含めて、その全ては神の神意、働きの内にあるのかもしれません。

 そして現在では、日月神示にみられる「石屋」について様々な考察が展開されていますが、それは世界の外側にある特定の何かであるのか、石屋とは誰かのことなのか、誰かという存在、想いは何処からやってくるのか、これはまた日いずる国の経・六に紐付けて改めて記事にしようとおもいます。


すべての民に智慧が明らかとなり、すべての魂が迷うことなくどうか神のさざれ石にとどまりますように。

                                  つづく

 

 

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日いずる国の経・七から紐解く艮の金神

 

紐ときについて

 

 前回のあとがきを終えて、今回の記事以降から少しの間、日いずる国の経に表現された神の型の紐解きに入ります。紐解きと言っても時に抽象的な表現を用いりながらビジョンに隠された事柄を違う角度から照らしてみたいと思います。

 この後の紐解きの記事には、経典や聖典、預言書からの引用が出てきますので以前より少々難解に感じるかもしれません。

 知識を増すことは時としてその本質を見失うという言うこともあり、私の知るところでは、読者の方が「日いずる国の経」1~Θ(シータ)まで目を通されればそれで十分なところはあるのですが、個々のもつ気質として、より多角的に分析することを必要とされる読者の方はこのまま下にお進みください。

 

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紐解き 1

日いずる国の経・七から見る艮の金神

 

 艮の金神とは鬼門である北東に、坤の金神は裏鬼門である南西の方角にあり、この両金神について、生涯にわたりとても御苦労を多くなさった半面で後世に大きな靈的遺産を残された、出口なお氏を開祖とする大本教では、艮の金神とは鬼門に封じられた国常立尊であるという大本神輸が降ろされています。

 鬼門とは、日いずる国の経・七の四章に描写されている、無数の喜びに満ちた生命が私の胸の目前右側から刹那に生まれ出て、楕円の起動の中で背後を過ぎ去った後に見失う場所が北東となり、その場所は苦悩と死に入れ替わる所であったため忌み嫌われた鬼門と成って、反対側の左背後からは苦悶を浮かべて刹那に死に流れ、私の左目前に戻って消える所が裏鬼門のビジョンの源として、その概念は私たちの記憶の深層にある集合意識から特殊な方角として印象づけられて世に写し伝えられています。

 そして日いずる国の経・七の四章で部屋の北東の方角に映し出された高山の二人の阿吽の呼吸をあわせた聖人とは、鬼門と裏鬼門の主を暗示されており、実際に私自身がその力に恐れを抱き、神を追い払ったようにするという「型」をその当時には、無自覚に演じる事によって後に自ら理解する必要があったのでした。

 しかしこの陰陽二極のビジョンは、道教のタオ(道)のように意識の揺らぎ以前にはまだ認知されておらず、その揺らぎ以降も出口王仁三郎氏の国常立尊の三十五万年前の御隠退という経綸に観られる神代までは、神々の世界には生死や善悪の分離的な観念はほとんど芽生えていませんでした。

 この三十五万年前、35と言う数は数靈としてシャンバラ国土が展開される数的宇宙曼荼羅の初期の一神代として示されています。

 また、別の角度で引き出してみれば旧約聖書の預言書である、ダニエル書の12章にはその逆説的視点として

「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、『千二百九十日』が定められている。待っていて『千三百三十五日』に至る者はさいわいです。」

 と言うダニエル書の北の王と南の王の非常に長い争いの終着点として現れるこの終末のビジョンは、三十五万年前の国常立尊の御隠退の時代にも似た、数靈に示された暗示的な原理が隠れているとも言えます。

 この紐解きから千三百三十五と言う数は、古事記に記された天地開闢の側から照らし合わせると、別天津神の造化三神と宇麻志阿斯訶備比古遅神と天之常立神を含む五柱の神代を強固に、その後の神世七代の末までは分離のない独神の威光の恩寵に与っていた神代を示唆している事が観えてきます。

 5という数は東洋では梅や桜の花、西洋ではアーモンドの花にみる五枚の花弁や牛に象徴され、言靈として観れば三五=産後のようなあたらしい命のように無垢な心の領域と言えるのかもしれません。

 この五つに表される浄化された境涯を大乗仏教思想に言い換えれば、不浄を離れた不還果以上の心が住む、浄居天または、五浄居天とも表現されています。不還果とは仏教哲学では四向四果『もう戻ることのない』こころの景色ですがこれについては、日いずる国の経・九の六章にある「もう戻れない」という言葉に紐付いて十地第六地からの法雲地と共に後の記事で少し触れたいと思います。

 そして補足として、ダニエル書にある『千二百九十日』の喩えは二つの陰陽、北の王と南の王を象徴する勾玉、6・9の動力によって因果が顕われて、日いずる国の経・七で示されたように、日本の磐座信仰の根本である、銀河の環を廻る塵のような石に自らの心を投影させて感じ取る事のできる、私たちの生きる物質世界、車輪のなかで流転する輪廻の六つの世界は、心の顕れとして地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の果てしなく続く時の輪を示唆しています。

「待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです」と言うその言葉は、気づきによって終わりの時に輪廻の内にある原因と結果の世界からほとんど離れつつある浄土、約束の場所を示していることを、私は日いずる国の経・七の時に知ったのでした。

                                   

                                    つづく

                               

 

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日いずる国の経  〆 国之常立神の世

 

あとがき 2

 前記事でも記したように私は2023年12月末に私としては予期せず執筆することになり、改めて自身の冥府の体験を忠実に振りかえり、冥府を渡る神型を地図のようにをこうして読者の方々に明かされ開示されているという事実に、新たな時代の息吹を感じています。

 それはなぜかと言いいますと、かつてのインド密教の高僧パドマ・サンバヴァが著したチベット死者の書、バルド・トドゥルは後の時代を見通して山中に秘匿されたのですが、チベットでは、時代に応じて人々に必要な時がやって来ると仏の加持によって世に埋蔵経典は出現すると信じられており、バルド・トドゥルもまた同様に、数世紀後になって仏教僧のカルマ・リンパが預言にしたがってチベットのガムポダル山で再びこの書を埋蔵経典として発掘したのです。

 これは言い方を変えれば、神の雛型で表現される内なる心の投影、現象世界の幻のような仮象の世を迷い生きるなかで、忘れていた大切な智慧をその人自らが適切な時期に必要に応じて、神仏の加持と共に、心の奥深くに眠る智慧を発掘させたと言っても良いのかもしれません。

 そしてこの冥界の智慧が一筋の光になり、私の心奥深くに眠るものを見出しはじめてから14年過ぎた年末年始に『日いずる国の経』を記しました。本来ならこう言った類のものは明かさぬように説き明かす、というように方便を用いて伝えられてきたのですが、本書では私に起こったこと、観たこと聴いたことをありのまま記しました。

 これは、日いずる国の経・十にあるように、この国を開いたもとの神が「この日いずる国に経を降ろしにきた」という言葉がそのまま反映されているのではないかと思います。

 体の寿命が訪れても、体を持ちながら世界に終末の型が写され訪れても、望んだ最期でも、望まぬ最期だったとしても、いつの時代でも等しく人の心には、中有、冥府の世界は映しだされることでしょう。

 そして国づくりのお役目を終えてお隠れになった出雲の大国主は、幽冥の素の主宰大神に還り、その慈悲深い加持によって十四万四千、四方八方上下の総ての靈、心が平安をもたらす神国、国之常立神の不二の国土へどうか遷されますように。


                                   つづく

 

 

 

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