日いずる国の経から紐とく  傲り高ぶる支配者と伊都之尾羽張

おわりの時

 今回は紐ときの最後の記事として2009年と2016年に私自身に起こった二度の体験で見え隠れするように現れた、傲慢で破滅をもたらす天魔について記していきます。

 2009年の日いずる国の経・二『青く冷たいほど澄んだ世界』の章に記された、世界が青くなり、自然と沸きあがる知識とこの世の超越感に

「すっかり私は以前の苦悩していた頃の自分を忘れ、新たな知識に得意げになり、その高揚も積もって次第に興奮しはじめていることに気づきました。」

とあるその存在は、2016年では日いずる国の経・八『裏切りの思いの泡』の章で、『無垢で清らかな存在』を自身の無明のために恐れを抱き、思いによって清浄な主を断ち切ってしまった後に

「この時からその存在は私の内から消えたのですが、それから再び7年前に経験したような高ぶった感情が、徐々に湧き上がってくるように現れてきていることに気づき始めたのです」

 とあるように、09年と16年のこの二つの体験から共通する事柄として、寂静を象徴する青い光景のあとに傲り高ぶるその存在は次第に顕著に現れ、ゲヘナは開かれるのですが、09年ではその後に現れる憤怒の象徴である赤い炎は頭頂からマグマが降り注がれ流れ落ちる地獄のような体験へと移行し、16年では丹田に凄む龍が頭頂から駆け登り、上空で米の時の如く四方八方に燃え移ったその後に言葉では言い表せない無間地獄の強烈な光景が現れるという体験が起こりました。

 このことは青と赤を象徴する中間点でその存在は顕著になり、この傲り高ぶる支配者は至高神の威光によって隠れる場所がなくなるかのように私たちの前に露になります。

 世の快楽的楽しみを司るこの偽りの支配者は六欲天にあり、つまり浄土国、みろくの世到来以前の祓われるべき自我意識から表れるのですが、この顕現の六根にたいする不浄と迷妄が露になる事によって、その6番目の景色で益々その穢れは祓われて力尽きてゆき、六つの根が清らかになるまでの7番目の境涯で虚空を見出すまでは、その活動がある意味では許されていると言うことが出来るのかもしれません。

 私たちは自身の心をただ観察し続けることで、この6番目から7番目までの階梯で露になる他即一の表れでありながらも煩悩の闇を纏ったこの存在「他=私」厳密に言えば他化自在天の影とも言える天魔は、私の上に神はいないという無明によって、総てに対して「私こそが」というその存在性に自惚れする特徴があり、それはグノーシス主義で言う偽りの神ヤルダバオートともデミウルゴスの様なこの存在は、潜在意識のもとで私たちの心に自我を強調させ際立たせることによって民を分裂させ混乱に陥れます。

 そしてこの顕れは本来の私たちの本質である純粋意識に気づかせないように手品師のように幻影を見せ、岩で戸を塞ぐように私たちが物質的価値を求める世界から離れる事が無いように努めています。

 しかし実際にはこの存在の力の所有者は私たち自身であり、個人の心の内に潜む穢れ、垢が集合意識から傲り高ぶるものとして顕現するのです。

 この事にたいして私たちができることは、自身の心の内にある傲慢な想いや虚栄心からくる比較の天秤をただ注意深く気づいていること、観続けることで、内側に潜むその力は次第に弱まり、外側に投影されて見える鏡世の様なこの世界でも、その高ぶる傲慢な現れは次第にその力を失速させながら、そして力を失うがゆえに益々露になるというのが道理のようです。

 私自身に起こったバルド・トドゥル(中有)での体験を通じて理解したことは、心に自我が芽生えて以来、潜在意識下で長きに渡り共に歩み続けてきた「苦しみを避けたい、喜びの多い人生を送りたい」という思い、誰もが願うごくあたり前の想いと行為の蓄積が、次第に右側だけを愛し左側を疎かにしてしまうかのように傾き、その反対のものを退けて喜びや楽しみを求め続けたことによって、かえって苦しみを際立たせてしまうことを観てきました。

 そして皮肉にもその繰り返しによって、喜びと悲しみの振れ幅は広がり、その振れ幅がさらに個としての「私」という存在性、自我をより特徴づけてしまい、ほんとうはただ心によって自然に現れては過ぎ去っている事象をその人自身の考え、都合によって辻褄を合わせながら「私」の見渡せる世界を生きていたいと願っているのですが・・・それは幻の様なものだったのです。

 地獄の閻魔庁には生前の行いを露にして映し出す浄玻璃鏡があると言われます。

 この鏡は、鏡によって映し出されたその人自身の罪を大王が裁くというよりも、浄玻璃鏡によって自身の穢れを認識し辱められながら自らの業に報い、強烈な光景である地獄の沙汰で自身の業により自ら裁き、裁かれるようにして反省を促すようです。

 このことから見方を変えて観れば、六欲界の主である天魔波旬、インド神話ではインドラの友人でありながら不倶戴天の敵ともいわれるナムチや西洋では滅びの子といわれるその顕現も、自身の心の鏡のようになって知らせてくれる存在でもあると言えます。

 このことを知って、ブッダやキリストが悪魔の囁きを祓ったことから学んで、退けることは退けてもなお、闇という役割があるからこそ、時の移行の中で光の恩寵を賜ることができるという理解のもとで心に憂いを抱きながらもその境涯を過ぎ去って、生まれや死、善や悪という因果を越えたところに浄土国は過去、現在、未来に現れ続けているのです。

。。。 。。。。。 。。。。。。。 。。。 。。。。。 。。。。。。。 。。。

 

 さて、日いずる国の経は年末年始にかけて意図することもなくはじまりましたが、この辺りでどうやら終わりのようです。

 これまで私たちの心の本性や、死後の世界に関する中有のこと、浄土国である弥勒の世に関わることは途方もない時を経て、神仏よりこの世の器を通じて宣べ伝えられてきました。

 この日いずる国の経に記されたことは特別に目新しいことはなく、天では既に起こった出来事なのですが、これまでは伏せられて表現されていた事をここまでストレートに記されたことに正直驚きを感じています。

 私に起きた2009年と2016年の二度の体験のうちで、どちらかと言えば二度目の方が遙かに厳しいものでしたが、09年に私に体験した出来事は、後の16年に起こったことにたいしての知恵と耐性になっていたことは事実でしたので、死に対して過剰に考える必要は決してありませんが、その心の備えは今生をより豊かにしてくれるものです。

 いずれは早くとも遅くとも、個々それぞれの寿命の時やカリ・ユガのような全世界の寿命は訪れます。その時にこの「日いずる国の経」が少しでも皆さんの役に立ち、十字の世で総ての靈がこぼれることなく、私のような小さな者にも慈悲深く道を示してくださった まことの神の御座します 不二の国土に結ばれて、涅槃に留まれますように。

                          

  令和 六年 二月二十二日

                                   勝 田 誠

 

 

 

ランキング参加しています。よろしければクリックお願いします

  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村 

哲学・思想ランキング
哲学・思想ランキング