日いずる国の経 〆あとがき

 

 



あとがき 

 

 この2009年と2016年に体験した中有での出来事、宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生のビジョン、09年はより肉体的な視点に基づいて表現されたもので16年はより精神的な体験になりました。実際には、この二つの体験は全く同質のものであり、パターンによる暗示された神の雛型があります。

 日いずる国の経の冒頭にもあったように私は事前に記事の投稿の意図はなく、2023年の年末に執筆に入りました。なにしろ14年も前の出来事から遡ったので断片的になりましたが、自身が実際に観たもの、体験したことを忠実に記すことに努めました。

 2016年を後に八年が経過し、これまで私の内に留めていたものをこうして書き記して振り返り、あらためて内なる至高神の足跡をたどってみると、上に記したように一定のパターンが見出されます。

 輝くもの、青に象徴されるもの、赤に象徴されるもの、黄疸による黄泉の暗示や、雲に暗示される煙にまつわること、蛇や龍、旋回上昇、四方八方への分離、分裂。

 そして分裂から再び元の一つの純粋意識へと帰還するための四方八方から中心への集まり、鏡、純粋意識への理解。

 これらの私たちの心の深くに眠る記録のビジョン、神の型はあらゆる世界の聖典にも描写され、この神の型が展開されていく過程で空間と共に認識され生み出された太陽や月や星などの関わりを各時代に執筆者の意図を越えたところで記されては発展させ、それを各国々の質感に合うように、神は神の料理を与えて下さり、私たちはそれに気づいていようともいなかろうとも、それは今もなお目前に現れては過ぎ去っていきます。

 

 そして現代の共通認識として137億年前にゆらいで始まったとされる私たちの心、宇宙の記録を私たちは皆平等に、父と母のもとで種が受精してから人間の形に胎児発育する進化の過程を母の子宮の中で十月十日の間で養ってもらい、数字の6のように頭を地に向けて南の閻浮提にある人の住む世界に誕生すると言われています。 

 反対に肉体、物質的な寿命の終わりには9に象徴される上の方角、北に頭を向けて中有または冥府の世界に向かい十王経などの十を象徴する加護が現れてくるのです。

 この終末的なビジョンを伴う中有での理想的なありようとして、起源を遡ればきりがありませんので、この項ではミスラ思想変じてみろく思想としますが、その流れの中に大乗仏教思想やユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような終末論などで見られる、異なっているようで同一の型をもった、終わりのときの裁きの期間に命を司るもとの神、十に象徴される守護のもとで私たち自身の心のありようを見極め、最後の生としてあらたに神国、浄居天に住生してやがては涅槃に入っていくことを過去の砂の数ほどの探究者たちの願い、本願とされてきたのでした。

 この涅槃に入る前の最初で最後の理想郷、ありのままに映し出された平等な国土を浄土国。その浄土国が全体の型として私たちが共有するこの世界に一斉に現れた時が、それはまさにみろくの世といわれる世界になると言われますが、大乗経典の維摩経には「この世界にありながら この世界がそのまま清浄の土でありうる」とも、法華経では「この娑婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ず」とも、サナト・クマラや鞍馬にも似た名を持つ亀茲国の鳩摩羅什の翻訳にあるように、実際には既に神国、浄土国、シャンバラは私たちの目前に現れているのですが、私たちに残された不浄、我欲が自らそれを許しません。

 そしてそれを頭では解っていても、心の深部に染み付いたその不浄を払うという事がどれだけ簡単な事ではないのかと言うことを、私は誰よりも不浄であったがゆえに理解していますし、神仏はそういう人間に、あえてその秘められたビジョンの一部を一足先に見せたのかもしれません。

 

 私が影響を受けたニサルガダッタ・マハラジは、ヴェールの向こう側を観測したときの反応について「驚きが少ない者はある意味、優秀と言えるのかもしれない」との趣旨の言葉を残されていますが、それは私とは違って、もともと汚れが少なく自然に他者を大切にして労わることのできる方や、自覚のもとで祓いの道に進まれる方々のような我欲の少ない人は、中有でも困難は少なく、より自然にみろく世に住生するのかもしれません。

 

                                  つづく

 

 

jyoururikou.hatenablog.com

 

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