日いずる国の経 十

 

この記事について

2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。

 

 

第七章

日いずるもとの神

 

 呼び集められた家族が家に着いて、すぐに私のことを心配してくれていましたが、以前のように床に入っているような状態ではなかったので安心してくれたようでした。
 私自身としてもこうして皆が来てくれたことにより、妻と娘が二人でこの異常な状況の中に置かれていることへの心配もあったので、安堵の想いがありました。

 そして私は兄弟に自分自身に起きていることをこの当時、許されている範囲で話をしました。
「許されている」というのは自身の体験したほとんどの内容は、兄弟にもこの執筆をしている今日まで伏せられていたのです。 

 その後、居間で集まってくれた皆に語り掛けていましたが私の心は、はるか彼方に在る至高神の御許にあり、そこから私は多面的な性質を持ちながら皆を眺めているようで、私の口から出る言葉も、はるか遠い彼方から、地に結ばれたこの身体にこだましているかのようでした。

 数日前に神が私に現れてから、表現の微妙に違った神々が現れてきたのですが、このとき辺りから私の口から出る言葉やその質感は、自身の心が至高神を観る純度、自分自身の心の微妙な揺らぎの強度によって垂直的で多面的に広がり、その聖質が変化していることに気が付きはじめました。

 兄が私に一体何が起きているのか問いかけると、私の口からは「私はこの日いずる国に経を降ろしにきた」と、語られるこの言葉を発しながら傾聴している私は、しなやかな威厳とこの尊崇に満ちた輝ける神は、この物質世界の地上に日の元の国を照らし映し、開いた力であることをすぐに察することができました。

 そして私はすべての生命を呼吸のように司る、まことの素の神を注意深くその御許で拝見していくうちに、それはよく観ればみるほど究極的には、すでに想いのゆらぐ世界から遥か彼方の昔に解脱する過程の時を越えていて、同時にまだ現れてもいない。

 この残像のようでありながら姿形のない あるがままで在りつづける神のもとでは、世界に何が起ころうとも影響されず、なんの問題も起きていないかのようでありながら、私たちの三千世界をただ静かに見守り、愛する余韻が充満しているように感じられたのでした。

                         

 

つづく

 

 

 

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