日いずる国の経 4

この記事について

2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。

 

第三章

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あの出来事から数日後、私はあのとき助言をくれた気療院の先生のもとにお礼のことばを伝えに向かいました。
 私はあの日の強烈な体験の余韻からまだ抜けずにいましたが、何より先生と直接お話をしていないため、先生の話を聞いてみたいと思っていました。

 気療院はビジネス街付近にあり、先生のご自宅に到着しご挨拶とお礼を伝えさせていただきました。そして私のあの日までの経緯と先生のご経験を聞かせていただきました。

 この話は、私が執筆している今現在から10年以上前の話なのでうる覚えになってしまうのですが、先生はもともとは設計の仕事をされており、瞑想を始められたきっかけは仕事のための能力開発だったそうで、10年ほど瞑想を毎日欠かさずに一日2時間は必ずおこなっていたそうです。

 そしてある時期からクンダリーニが目覚めた後に過酷な体験が突如としてはじまり、当時御縁のあったヨーガの先生である本山博先生に相談されたそうです。
 その時このまま瞑想を続けるのは危険なため、直ちに瞑想を行うのを中断するように助言されたそうですが、しばらくして再び瞑想を始めてしまい、即座にまた以前のような体験が始まりますが、ご自身のナーディ、中央管脈の問題に気づいて大きな問題を乗り越えることが出来たとのことでした。

 先生はそれ以降に賜った強力な氣の力に目覚め、その後に気療院を始められたそうですが、私は施術を実際には受けていませんが、当時先生と向き合って話をしているだけで非常に強い波動を感じましたし、何よりこの家に蓄積しているエネルギーが既に強いエネルギー場となっていることを観ると、この先生のお持ちの氣療術は通常のそれとは一線を画しているであろうことが容易に理解することができるのでした。

 そして先生の豊かな気質と役割を拝見させていただき、とても有意義な時間を送ることが出来ました。帰り際に奥様にお礼をお伝えすると「主人もこのことについて知りたがっているから」(先生ご自身に起きていること)と お話しされ、私はその言葉に強く共感を受けたことを覚えています。
 それはあれだけの不可思議で命がけの体験をしたのに、私も同様に疑問と知りたいという思いが残っていたからです。

 あの体験以降、私はあのときチベット死者の書の目を通さなかった部分を再び読もうと本を開き、バルド・トゥドゥルという「自然に解脱する書」を今更ながら読み始めました。
そして感じたことは「先に読んでおけばよかった・・・」という事でした。

 その書の内容は日本の大乗仏教の四十九日法要の話にもある、死者が肉体を離れて冥府の世界、または中有ともいわれる四十九日の間に現れる、閻魔大王含めた十王の法話の世界観にも似たものだったのです。チベットでは8世紀後半にインドから訪れた高僧、パドマ・サンバヴァによって死者が自然に解脱するための智慧が、チベット死者の書として詳細に伝えられたのでした。

 

 そして私が見たあの体験の時系列、青く冷たいほど澄み切った世界はチベットの表現では静寂な姿をとって現れた寂静尊と言われ、あの高揚し、高ぶりながら赤黒い狂気の世界は憤怒尊が顕す世界であったことをこの時知ったのです。
 人間は体が朽ち離れずとも、このような世界を外的な方法を用いずに、心によって見出すことが可能であり、そしてこのような智慧を駆使してエジプトの「日のもとに出現する書」別名、エジプト死者の書などの冥府の旅の書はこういった次元のビジョンによって書かれたのであろうと確信しました。

 私はそれ以降から主にウパニシャット、ヒンドゥー教、仏教の書物にかじる程度ですが目を向けるようになり、現代の聖者と言われる者たちの書物にも目を向けました。
 この頃には既に沢山のスピリチュアルの本が出版されていましたが、その中でもラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジの存在は当時の私にとってひときわ印象に残るものでした。

 それは彼らからでる珠玉の言葉には、自分のクンダリーニ体験を通じて思考を使って考えてみれば理解できる気分にはなるのですが、体験としての彼らの理解はさらに深遠なところから引き出されていることが明白だったからです。

 彼らは神々や神秘的なことを出来るだけ語るのを避け、自分は何者なのかという問いに意識を向けるように方向付けていました。彼らの言葉の力には不二一元論者の中でまれに聞く、一瞥体験から得た空性体験の無ではなく、神々の世界を過ぎ去った後に残った空性の理解があることを私は感じていました。

 おそらくこの見えない背景にある深遠な「何か」を知ったときに、あらゆる聖典の神々や神秘的な描写などの不透明な部分は過ぎ去って、私の探し物はなくなるのだろうと、それまでは自分の無知と理解に対しての謙虚さを忘れないようにしようと、誓うほどではありませんでしたがその時はそう思ったのです。

 そして瞑想の方はその後も続けてはいましたが、クンダリーニ・ヨーガやチャクラの観相を行う事よりも、ヴィパッサナー瞑想やシャマタ瞑想に興味が自然と向かっていき、「瞑想の時間とそれ以外の時間」という区切られた意識の区別を作ることからも徐々に離れていきました。
 その理由は、ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジの言葉の影響は勿論ありましたが、あの輝きと死の体験の時に様々なビジョンを自分自身が観たことによって、実際に私が瞑想をしているという区切られた意識から離れた所でも、自然にあれだけの不可思議な経験をできた事が大きな要因だったのだと思います。

                         

 

                            つづく

 

 

 

 

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