
この記事について
2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。
第二章
諦める
朝になって朝日がカーテン越しに入ってきましたが、私の状況は変わりませんでした。
私を見守りながら介護職をしていた弟が、私に黄疸が出ていると兄に伝えているのが聞こえ、私は煙の中にいるような朦朧とした景色の中で、無数の針が心臓まで集まってきていることを認識していました。
そして朝の7時頃、兄が深夜に私と同じような経験をした人がいることをインターネットで見つけてくれていたようで、〇〇気療院というところの○○先生が長い瞑想期間の後、クンダリーニヨーガの力によって気が狂いそうになる程の壮絶な体験をされたそうで、兄はその先生に朝一番で電話連絡を取ってくれたのです。先に奥様が電話に出られ、先生は朝の散歩に出かけていて留守とのことだったのですが、こちらの事情をお伝えすると折り返し連絡して下さるとのことだったので、兄は電話を切り返事を待ちました。
このとき私達のいる部屋の空間や磁場は、今までの私たちの知っているものとは違ったものになっており、非常に神聖な気配が立ち込めていたのでした。
30分程経ってから気療院の先生から連絡を頂いたのですが、私は電話にでられる状況ではなかったので兄が代わりに先生と話をしてくれました。私が瞑想を始めてからの経緯と、今の状況を先生に伝え、兄は私が昨晩から体に火の熱が走るような体験が続き、灰を被りたいという思いに駆られ、無数の針が体中の氣流をめぐっていることを伝えると、先生はご自身の経験を兄に伝え、それを踏まえた上で
「一度そうなったらもう手遅れなので諦めるしかなく、あとは神にゆだねること、それしか方法はない」と兄を通じて私に伝えてくれました。兄はお礼を言い電話を切りましたが、このとき先生と私に挟まれた電話でのやり取りの最中に、彼の丹田の氣が自然に反応しはじめて、ブルブルと大きくエネルギーが揺れ始めたので動揺したそうです。
私はこのときの先生の言葉を不思議と信頼して信じることができ、体の緊張をすべて解こうと決心しました。兄弟に私の枕元にお守りとして画家、エル・グレコの聖三位一体の絵画とその横にアレックス・グレイの絵画を置いてもらいました。
そして兄弟にお礼を伝えて張りつめていた想いを総て手放すと、私の心臓のもとに四方八方から集まって来た総ての針は心臓に流れ込んでゆっくりと溶け去り、この溶解したものの本質は純粋な意識であったのでした。
そしてそれは心臓からナーディ(氣の通る管脈)を通って頭頂に向けてゆっくり流れだし、私の非常に細くなっていた意識の形状は、まるでツタンカーメンの棺が持つ杖、傘の手元にも似たようになっていたのです。
この杖のようになった純粋な意識はナーディを伝って頭頂から抜けていくと、私の意識は再び強い輝きのもとに戻っていき、不思議なことに強い悪寒も黄疸も無くなっていったのでした。
つづく
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チベット死者の書は本来、死者のため、もしくは死がさし迫った者に読み聞かせるものだそうです。日本にも同じように道教や儒教思想の影響が入った「十王経」と言う、四十九日法要の基となる経典があることを思うと、この日本にも死のヴェールの裏側にある貴重な智慧が文化として根付いていることに改めて気付かされます。
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《※本来ヨーガや瞑想は、行うものに恩恵をもたらすものです。
決して危険なものではありませんが、クンダリーニヨーガに関しては生命の記録を半強制的に呼び覚ましてしまう側面があります。精神的または靈的に準備が出来ていない場合に考えられる懸念と、身体的には特に中央のナーディ、眉間と頭頂のチャクラが開いていないと大変危険ですので、クンダリーニヨーガに興味にある方は経験豊富で信頼できる、できれば相伝されてきた系譜のある先生のもとで行う事をお勧めします。