薬師十二神将像
日月神示 扶桑之巻 十二帖
進る(奉る) 宇都の幣帛きこしめしたべ。
神の御手に巻物がある、その巻物の数は[五十巻]、この巻物を見たものは今迄に[一人もなかった]のである。見ても判らん
[巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙]となってしまうのである、人民にはわからんなり。
説くことは出来んなり。
[この巻物は天の文字で書いてあり、数字で書いてある]
無が書いてある、無の中に有が記してある
心を無にすれば白紙の中に文字が現われるのである。
時節参りて誰の目にも黙示とうつるようになった、有難いことである。
岩戸が開けていよいよの時となった、始めからの巻物よく読んで下され、よくより分けて下され、何もかも一切ありやかに刻まれている。
[残る十二巻と一巻]は人民ではわからん
[無の巻物、空]に書いてある。
※日月神示の語尾「ぢゃ」や「ぞ」等の表現は省略しています。
日月神示はこれまでに開示されている三十八巻、ほかに未発表が十三巻あるとされていますが、第一巻の上つ巻よりはじまり、三十一巻・扶桑之巻物から三十八巻・紫金之巻物の五十黙示録を経て、その全体性を空性の理解を通じることによって、未発表の十三巻は開示され、全五十一巻の日月神示は完巻となります。
私たちの取り巻く世界は、印度より古くから伝えられているように、心によって顕れた幻影のようなものであり、その実体は有ることもなく無いこともない、それは梵語の[śūnya]と言う意味での“無”または“空”です。
その無の揺らぎによってあらゆる可能性の泡という“うむの種”は、大宇宙を司る中今から見渡す輝く者により発芽し、その顕れの認識は五つの属性の働きによって“私は在る”と言う存在性の経験を過ぎ去っているのです。
かつて仏陀が五比丘に説いた四聖諦から八正道、十二支縁起の数字に付随された利益のある説法のように四から八、八から“十二”へと、三百六十度に具現化するその認識世界の微細な構成要素として、天の数も幾何学的に縁起の流れの内に拡張されてゆきます。
日月神示、扶桑之巻 十二帖では般若心経にある色即是空、空即是色の“空”と言う、究極的には描写不可能な領域を示唆し、その総ての根源の果てである無の背景では思考の介入が不可能であり、それがゆえに白紙であるからこそ、[巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙]となり、この巻物を見た者は今まで[一人もいなかった]と言う頓知のきいた謎かけになってるのです。
この般若の智慧によって心の内にある、[十二の門]は五十一に象徴される、初めであり終わりである[全一者]によってとこしえに輝き、その総ての命は一なる命であるというリアリティは元来、私たちの心の深いところで確かに備わっている五十の智慧の浸透によって理解が訪れます。
[残る十二巻と一巻]の計・十三巻ついて岡本天明氏の残された言葉、「これら未発表のものは、或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」
という日月神示の未発表にして既に発表されている巻の意味の本質は、神示に記された末法の時代から黄金期への時代の移行における終末的なヴィジョン、または個人的な肉体の寿命が尽きて顕れる冥府から彼岸へ渡る情景も同様に、私たちがかつて変化する体験の中で創り出したとも言える、果てしなく長い命の記録の道のりを浄化のうちに歩み、その中で目撃するその“色”の実在性の究極は、有ることも無いことも金剛された“空”に輝く智慧の光である事を伝える事にあるのです。
以前にも記しましたが、出口王仁三郎氏のような稀にみる化身性を伴った洗練された覚醒の魂のその後の時代に、途上の魂である大本の信者であった岡本天明氏を媒体として十二支鬼神の主・薬師如来の脇侍、日光菩薩・月光菩薩の垂迹とも言える天之日月神より神示は降ろされました。
天明氏は途上であったが為に、その表現は少々粗雑化したかもしれませんが、だからこそある意味ではおほもと一代、出口なお氏から日出麿氏までを含む研鑽された大本の神業の流れでは拾いきれなかった人々にも、この謎めいた神示が興味を抱かせ続け、現代に至っていることは天明氏とその協力者たちの大きな功績とも言えるのではないでしょうか。
今日、日月神示の未発表とされる十三巻の事柄に振れたのは、移りゆく森羅万象を内に、この空性と縁起の智慧の自然な理解の神道によって煩悩の働きを洗い清め、大峠においても“一切皆空”であることを肯定的に受け入れて、どんなに困難な時でも利他的であれるように願い此処に開示したのです。