
先日、子供の頃からの親しい友人よりメールが届いたのですが、投稿の許可をもらったので以下、掲載させていただきます。
お久しぶり、この頃は、みんな大好きだなあと思う時間と、みんな悪いやつだなあと思う時間を過ごして来ました。
特に具体的な理由もないのに、心が勝手に移ろいでいるような。すごい振り幅でした。
その思いの振り幅が陰陽のようにやってくることがすごくよくみえます。
意図せずに、ネガティブやポジティブな感情が訪れるというか。
そんなふうに想いを観ているとわたしの感受はわたしが決めていないことを感じます。
だけど平等という観点から意識してみてみると、基本的には俺も含めてみんなほんとに身勝手だなと思う。
これでは、この世のみんなが幸福になることはまずあり得ない。
けれど、そのそれぞれ人の身勝手さには、憤りもあるし、好意な気持ちもある
だから、そこに物語が生まれる。
敵視する心境もあれば魅力に感じることもある。
その情緒に振り回されている。
だからこそ、自分も含めた全てを許さなければならない。
心から許すことが出来ない限り、この陰陽のループはずっと続くんだろうな。
今に始まったことではないないけど、人の想いは忙しく大変だな。
何てことを切実に思う今日この頃です。
許す以外に選択肢あるのだろうか?
そんなこんなの葛藤してたときに、以前のブログ内の「比較の天秤をただ注意深く気づき観ること、、、次第に弱まり、、、」ってのは、基本として、知ってはいた事なんだけど、なぜか新鮮に感じたよ。
色々諦められないにしろ、心を観ることにもうちょっと真剣になった方が良いと思ってます。
毎度毎度ありがとう
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友人の言うように心から出る想いはつねに忙しく、私たちを喜ばせ時には苦しめもします。
そして友人の言うように憤りと好意の内に良くも悪くも世界の物語が確かに生まれます。
私たちは何だかんだと想いながらも平和と平安を望み、その望みを見いだすための本能の願いから再び世界を想います。
しかし九曜の煙で記したように私たちの本質である純粋な意識は良いことも悪いことも、生も死も、相対するそのどちらも一つのものとみなし、そしてその想いも越えています。
この理解、純粋性を見いだすのにそれを必要とする者でなければ特別な神秘体験が必要だとも私は思いませんし、特別な修行のような行為が必須だとも思いません。
一時的な神秘的体験は、むしろよほど注意深くなければ体験者の我を誇張させてしまい道の妨げにもなるものです。
恥の多い生でも構いません、華やかさの多い生もまた同様です。
もっとも大切なのは友人の言うように心の本質を探求することへの真剣さであり、聖書にもある『然り、然り』『否、否』と記されるようなあり方で心から表れる想いの発祥である源を継続して探求することで自然に理解の深まりは起こり安定に向かうのです。
私の娘は三歳あたりの頃は風邪をひいても気にもとめずに平然と歩いていたことを思いだします。全ての子供同様に彼女はこの当時はまだ世界と言う存在も自分自身の性別も知らないし風邪と言う概念を知らなかったのです。
九曜の煙の画像にある月の下の文字はちょうど上の辺りの時期である乳幼児期の娘が床から立ち上がる様になり、ちゃぶ台に手をかけて初めて筆を持ってただあるがままに言葉以前の言葉のはじまりである何かを表現して描き出した線です。
国の常に立つ世界とはこのような子供のように性別という概念を独神のように知らず、世界を認識する以前と以降の狭間のような無垢な状態と喩えることができるのかもしれません。
私たちは成長するに従ってその映し出された事象を認識してそこから想いが起こり、その想いの積み重ねが概念となって各自の世界の物語をそれぞれが作り上げてきたとされています。
そして心の想いによってまさしく私の友人が言うように世界の物語が生まれるのですが、それは本当に私たちの個々の想いによって作り上げてきたものでしょうか?
想いの中には自我が確立されてゆく働きがありますが、その想いを見つめる観照している存在とはいったい誰なのでしょうか?
私は誰か?
この存在性、「我は在りてあるもの」という意識は、目覚め・夢見・熟睡の意識層の反映である三界を貫いているといわれます。
皆が知るように深い眠り、熟睡時には目覚めてから顕れる個人意識は不在です。
友人は目覚めの活動の中で意図せずに、夢見同様にネガティブやポジティブな感情が訪れることに気づいていますが、この目覚めという活動の中で心は映し出されたことに想いを乗せて自己と世界という概念を確立します。
だからこそ、この目覚めの意識の中で世界に対する想念を注意深く見守り、心の想いによって現れた想いを心によって理解する必要があるのです。
古くから伝えられてきたヘビとロープを見間違える喩えがありますが、同様に私たちは本質を見間違えてしまったのです。
それは世界の中に我がいるのではなく、我の内に世界が顕れているというその気づきのなかで脚色されないあるがままの純粋な心は、自我が自然にそれを受け入れて理解したそのときこそ、その個人性は「梵と我」と言う我は枯葉が落ちるようにして、ただ自らの輝きによって分かつことのできない即平等を知るのです。
それがゆえに上昇のヴィジョンが顕れても立ち止まることなく、それは産道のように元への道は細道ですが、たとえ大きな困難がやってきてたとしても神仏を信じて恐れることなく祓い清める必要があるのです。
ほんとうの約束されたみろくの世とは弥勒の等覚と等しく三千世界を貫き花開く、争いや分断のない初めにして最後の生である心洗われた純粋な意識です。
この理解がどうか皆さんに届きますように。
そして私にメールをくれた古い友人とは話せば昔からほとんど冗談ばかりの会話ですが、私の知る普遍的な意識の発見は家族や友人達との全ての関わりを通じて不可思議な私自身の鏡のようにして知らされて学んだものでもありますから、彼ら彼女らを司る神の恩寵に感謝はもちろん、このメールを送ってくれた友人、毎度毎度こちらこそありがとう!