来るものも去るものも、眠りの中の夢と同じように心の作用から表現される自分自身の影のようなものです。
現れに作用した心は、本来の存在性から個人性へと錯覚させます。
本来の心とは存在そのものであって全てを内包し差別なく平等です。
この存在性が愛であるゆえにそこから分離した個人性の中でも、他者を愛することや友愛を求める自然な想いが起こるのです。
心はその個人性、「私」を知らないという状態にこそまことに春の梅の花が咲くかのように、五つの属性は浄化され、ほんとうの私たちの存在性、「私は在る」という神のもとで遍く輝いているのです。
来るもことも去ることも一つと成った中今に気づいている観照者が、観測している自分自身をも手放して見渡す無垢の状態では、心は独り朝も夜も越え、自らの輝きによって照らし、世界は元の三分の一となるでしょう。
自我は常に行為者として何者かであろうと努めます。
しかしほんとうは行為者という積み重ねた想いは幻影の様なものという理解のもとでは、私たちの本性は「我ありて在るもの」という総ての存在性そのものであるがゆえに、来ることも去ることもなく原因にも結果にも関わることなく、それはただ起こるのです。
子供に初期衝動が起こり、夢中になって初めて文字にならない文字や意図のない線を描くように、見返りや評価、言葉の意味を超えたところに自然で純粋な何かが在ることを私たちは知っています。
三つ子の魂、百までと言いますが、これは誰しも全ての心にこのような純粋な泉が、その源流から今でも心の奥深くに流れていることを思い出させてくれます。
自らの事は自分自身が一番よく知っているものです。
世界で起こる全ての事象は私たちの総ての表現であり属性です。
この理解の内に心をみつめる靈は、備わったその気質と役割を行為の中で、やがては行為者という個人性をも過ぎ去って、個人から全体へ全体から絶対へと、心はもとの源へと自然に留まるでしょう。
これを知って、ただ移りゆく諸行無常の響きのなかで世界を見渡し、本来の祇園の平安があなたに望みますように。