日いずる国の経 5

この記事について

2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。

 

 

第三章

花桃

 

 さて、それから3か月ほどして私は用務員の仕事の後に老人ホームの傾聴ボランティアを始めました。それは兄弟の二人と長く付き合いのある友人が、福祉関係の仕事をしていたことがきっかけでした。

 当時の私の福祉業界への移行の動機を説明すればきっといくらでも説明できると思いますが、何よりも何か新しく始めることが必要だったのかもしれません。

 そして私は、自身の希望として介護ヘルパーの資格を取るまでの一年間、転職をして障がい者支援施設でのアルバイトを始めました。
  一年間というのは地元の世田谷区で弟が勤める病院のヘルパーとして従事する事になっていたのですが、要資格が条件であったと言うのが理由でした。
 

 この理由に施設の当時の主任さんは「施設に残って長く仕事を続けてほしい気持ちはあるけど、きっとこれからはうちの施設でも高齢化や重度の利用者さんの受け入れ増員で、車椅子の移乗技術やおむつ介助の技術が今以上に必要になってくると思う、だからそういった技術を学べる所に行くのは良いことだと思うし、何より同じ福祉の仕事だから何処に行っても何処かで誰かが助かっているわけだし、また縁があれば障がい者支援施設で働くかもしれないから、だから陰ながら応援しているよ」と言って受け入れてくれる様な、とても暖かみのある家庭的な雰囲気を感じることのできる施設でした。

 この施設で一年間お世話になり、私は知的障がい、強度行動障がいを持つ方々の支援の経験をさせてもらったのです。

 

 その翌年、私は病院で正規職員として勤め始め、末期患者の方が主に療養されている病棟に配属されました。
 そしてこの病棟で東北出身の妻と出会ったのですが、彼女は梅干しを作ったり野草を調べたりするのが趣味で、近い将来に自然の豊かなところで昔の人のような生活をしたい、という思いを強く持っていました。私もそんな考えに興味と共感をもてたし、実際にそこから学べることが多くあったのです。

 この頃はIターンという言葉が世間的に知られ始め、過疎化の進む村へのlターン移住者が増えはじめていた頃だったと思います。
 私たちの間には子供を授かっていたので、子供の出産は田舎で迎えたいという想いから物件を探したのですが、役場を通じて長野県の山中にポツンとある古民家を借りることが出来ました。

 この家は山道にある駐車場に車を止め、さらに山の中を10分弱歩いた所にあったのですが、もちろん山の中には外灯はないため夜はランタンを灯して歩く必要があったのです。

 村では山の中の家を「出づくり」と言って、昔は夏になると山の家で田畑の仕事をし、冬は山を下りてふもとの家で生活をする。という二つの家をもつ習慣のある村だったのですが、私たちは村の他の空きや家を選ばずに、この山の家を借りることにしました。


 この家を紹介してくださった役場の方は、この村の冬は雪が凄く積もるしマイナス10度を超える事もあるので、地元の人でも冬は山に住まない。と言うことと、妻が妊娠していることをとても心配してくれましたが、私は自然のことに疎い都会育ちだったので、無知が故にこの家をお借りして住むことを決めたのです。

 移住したての当初の私は、畑の野菜の葉を見ても何の野菜かもわからないほどでしたし、薪を焚いたことも、割った事もありませんでしたが次第に山の生活にも馴染んできました。

 そしてその年の夏の明け方、妻に破水が起こったので薄明りの山道を歩いて下り、病院に向かい無事に娘が生まれたのです。

 彼女の名を当初は「ゆい」と決めていたのですが、役場に届け出に行くと名前に当てていた漢字が使えない、とのまさかの指摘を受けてしまい、考え直すこととなりました。
 そして浄土の装飾品である瑠璃宝から名をいただいて瑠璃と名付け、私達は家族三人の生活になったのです。

 冬になると長野での寒さは厳しく、山の水が凍結するのは日常で、駐車場から家までは山道が凍結しているのでアイゼンを履いての登り下り、駐車場までの除雪、クマがいたり、カメムシが異常にいたり、山奥の中で生活するには大変なことも沢山ありましたが、ここでの生活はそれらの苦労を上回る豊かさがあって、山の美味しい湧き水や寒暖差の強い高所で育った美味しい野菜、五右衛門風呂に薪ストーブのある生活は素晴らしく、お金はなく大変素朴で質素な生活でしたがとても幸せに暮していました。

 

 山で生活を始めて早3年が過ぎたころ、私たちの予想のしていなかった問題が出てきました。それはこの私たちの住む山の下に、リニアモーターカーの地下線路を通す計画が進んでいて、掘削後の残土をとなりの山に捨て、この山周辺の山道はたくさんのダンプカーが何年も走り続けることになると・・・この計画はこの時には既にほぼ決定されており、住民説明会なども行われていました。

 まさかの予想外の出来ごとに私たちは困惑しましたが、もともとの目的である自然の豊かな中で暮らし、子供を育てたいという想いと環境を考えると、村の方々にも大変お世話になっていましたが、一年ほどかけて考えたのちに、この場所を離れるという決断をしました。  

 そしてその後の2016年に私たちは私の父親の故郷である伊豆半島に移住することになったのです。


この後に再び強烈な神秘的な体験が起こり、神が私の内からご出現されます。

                    
                       

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日いずる国の経 4

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2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。

 

第三章

探す


あの出来事から数日後、私はあのとき助言をくれた気療院の先生のもとにお礼のことばを伝えに向かいました。
 私はあの日の強烈な体験の余韻からまだ抜けずにいましたが、何より先生と直接お話をしていないため、先生の話を聞いてみたいと思っていました。

 気療院はビジネス街付近にあり、先生のご自宅に到着しご挨拶とお礼を伝えさせていただきました。そして私のあの日までの経緯と先生のご経験を聞かせていただきました。

 この話は、私が執筆している今現在から10年以上前の話なのでうる覚えになってしまうのですが、先生はもともとは設計の仕事をされており、瞑想を始められたきっかけは仕事のための能力開発だったそうで、10年ほど瞑想を毎日欠かさずに一日2時間は必ずおこなっていたそうです。

 そしてある時期からクンダリーニが目覚めた後に過酷な体験が突如としてはじまり、当時御縁のあったヨーガの先生である本山博先生に相談されたそうです。
 その時このまま瞑想を続けるのは危険なため、直ちに瞑想を行うのを中断するように助言されたそうですが、しばらくして再び瞑想を始めてしまい、即座にまた以前のような体験が始まりますが、ご自身のナーディ、中央管脈の問題に気づいて大きな問題を乗り越えることが出来たとのことでした。

 先生はそれ以降に賜った強力な氣の力に目覚め、その後に気療院を始められたそうですが、私は施術を実際には受けていませんが、当時先生と向き合って話をしているだけで非常に強い波動を感じましたし、何よりこの家に蓄積しているエネルギーが既に強いエネルギー場となっていることを観ると、この先生のお持ちの氣療術は通常のそれとは一線を画しているであろうことが容易に理解することができるのでした。

 そして先生の豊かな気質と役割を拝見させていただき、とても有意義な時間を送ることが出来ました。帰り際に奥様にお礼をお伝えすると「主人もこのことについて知りたがっているから」(先生ご自身に起きていること)と お話しされ、私はその言葉に強く共感を受けたことを覚えています。
 それはあれだけの不可思議で命がけの体験をしたのに、私も同様に疑問と知りたいという思いが残っていたからです。

 あの体験以降、私はあのときチベット死者の書の目を通さなかった部分を再び読もうと本を開き、バルド・トゥドゥルという「自然に解脱する書」を今更ながら読み始めました。
そして感じたことは「先に読んでおけばよかった・・・」という事でした。

 その書の内容は日本の大乗仏教の四十九日法要の話にもある、死者が肉体を離れて冥府の世界、または中有ともいわれる四十九日の間に現れる、閻魔大王含めた十王の法話の世界観にも似たものだったのです。チベットでは8世紀後半にインドから訪れた高僧、パドマ・サンバヴァによって死者が自然に解脱するための智慧が、チベット死者の書として詳細に伝えられたのでした。

 

 そして私が見たあの体験の時系列、青く冷たいほど澄み切った世界はチベットの表現では静寂な姿をとって現れた寂静尊と言われ、あの高揚し、高ぶりながら赤黒い狂気の世界は憤怒尊が顕す世界であったことをこの時知ったのです。
 人間は体が朽ち離れずとも、このような世界を外的な方法を用いずに、心によって見出すことが可能であり、そしてこのような智慧を駆使してエジプトの「日のもとに出現する書」別名、エジプト死者の書などの冥府の旅の書はこういった次元のビジョンによって書かれたのであろうと確信しました。

 私はそれ以降から主にウパニシャット、ヒンドゥー教、仏教の書物にかじる程度ですが目を向けるようになり、現代の聖者と言われる者たちの書物にも目を向けました。
 この頃には既に沢山のスピリチュアルの本が出版されていましたが、その中でもラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジの存在は当時の私にとってひときわ印象に残るものでした。

 それは彼らからでる珠玉の言葉には、自分のクンダリーニ体験を通じて思考を使って考えてみれば理解できる気分にはなるのですが、体験としての彼らの理解はさらに深遠なところから引き出されていることが明白だったからです。

 彼らは神々や神秘的なことを出来るだけ語るのを避け、自分は何者なのかという問いに意識を向けるように方向付けていました。彼らの言葉の力には不二一元論者の中でまれに聞く、一瞥体験から得た空性体験の無ではなく、神々の世界を過ぎ去った後に残った空性の理解があることを私は感じていました。

 おそらくこの見えない背景にある深遠な「何か」を知ったときに、あらゆる聖典の神々や神秘的な描写などの不透明な部分は過ぎ去って、私の探し物はなくなるのだろうと、それまでは自分の無知と理解に対しての謙虚さを忘れないようにしようと、誓うほどではありませんでしたがその時はそう思ったのです。

 そして瞑想の方はその後も続けてはいましたが、クンダリーニ・ヨーガやチャクラの観相を行う事よりも、ヴィパッサナー瞑想やシャマタ瞑想に興味が自然と向かっていき、「瞑想の時間とそれ以外の時間」という区切られた意識の区別を作ることからも徐々に離れていきました。
 その理由は、ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジの言葉の影響は勿論ありましたが、あの輝きと死の体験の時に様々なビジョンを自分自身が観たことによって、実際に私が瞑想をしているという区切られた意識から離れた所でも、自然にあれだけの不可思議な経験をできた事が大きな要因だったのだと思います。

                         

 

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日いずる国の経 3

 

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第二章

諦める

 朝になって朝日がカーテン越しに入ってきましたが、私の状況は変わりませんでした。
 私を見守りながら介護職をしていた弟が、私に黄疸が出ていると兄に伝えているのが聞こえ、私は煙の中にいるような朦朧とした景色の中で、無数の針が心臓まで集まってきていることを認識していました。

 そして朝の7時頃、兄が深夜に私と同じような経験をした人がいることをインターネットで見つけてくれていたようで、〇〇気療院というところの○○先生が長い瞑想期間の後、クンダリーニヨーガの力によって気が狂いそうになる程の壮絶な体験をされたそうで、兄はその先生に朝一番で電話連絡を取ってくれたのです。先に奥様が電話に出られ、先生は朝の散歩に出かけていて留守とのことだったのですが、こちらの事情をお伝えすると折り返し連絡して下さるとのことだったので、兄は電話を切り返事を待ちました。

 このとき私達のいる部屋の空間や磁場は、今までの私たちの知っているものとは違ったものになっており、非常に神聖な気配が立ち込めていたのでした。

 30分程経ってから気療院の先生から連絡を頂いたのですが、私は電話にでられる状況ではなかったので兄が代わりに先生と話をしてくれました。私が瞑想を始めてからの経緯と、今の状況を先生に伝え、兄は私が昨晩から体に火の熱が走るような体験が続き、灰を被りたいという思いに駆られ、無数の針が体中の氣流をめぐっていることを伝えると、先生はご自身の経験を兄に伝え、それを踏まえた上で
「一度そうなったらもう手遅れなので諦めるしかなく、あとは神にゆだねること、それしか方法はない」と兄を通じて私に伝えてくれました。兄はお礼を言い電話を切りましたが、このとき先生と私に挟まれた電話でのやり取りの最中に、彼の丹田の氣が自然に反応しはじめて、ブルブルと大きくエネルギーが揺れ始めたので動揺したそうです。

 私はこのときの先生の言葉を不思議と信頼して信じることができ、体の緊張をすべて解こうと決心しました。兄弟に私の枕元にお守りとして画家、エル・グレコの聖三位一体の絵画とその横にアレックス・グレイの絵画を置いてもらいました。

 そして兄弟にお礼を伝えて張りつめていた想いを総て手放すと、私の心臓のもとに四方八方から集まって来た総ての針は心臓に流れ込んでゆっくりと溶け去り、この溶解したものの本質は純粋な意識であったのでした。
 そしてそれは心臓からナーディ(氣の通る管脈)を通って頭頂に向けてゆっくり流れだし、私の非常に細くなっていた意識の形状は、まるでツタンカーメンの棺が持つ杖、傘の手元にも似たようになっていたのです。

 この杖のようになった純粋な意識はナーディを伝って頭頂から抜けていくと、私の意識は再び強い輝きのもとに戻っていき、不思議なことに強い悪寒も黄疸も無くなっていったのでした。

                             つづく

。。。 。。。。。 。。。。。。。 。。。 。。。。。 。。。。。。。

 チベット死者の書は本来、死者のため、もしくは死がさし迫った者に読み聞かせるものだそうです。日本にも同じように道教儒教思想の影響が入った「十王経」と言う、四十九日法要の基となる経典があることを思うと、この日本にも死のヴェールの裏側にある貴重な智慧が文化として根付いていることに改めて気付かされます。                  

 

__________________________________

《※本来ヨーガや瞑想は、行うものに恩恵をもたらすものです。
決して危険なものではありませんが、クンダリーニヨーガに関しては生命の記録を半強制的に呼び覚ましてしまう側面があります。精神的または靈的に準備が出来ていない場合に考えられる懸念と、身体的には特に中央のナーディ、眉間と頭頂のチャクラが開いていないと大変危険ですので、クンダリーニヨーガに興味にある方は経験豊富で信頼できる、できれば相伝されてきた系譜のある先生のもとで行う事をお勧めします》

 

 

 

 

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日いずる国の経 2

 

 

 





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2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。



第一章

初めなければ 終わりなし その2 

 
 それから6か月ほど過ぎた11月頃には、意識に備わる男性性のエネルギーや女性性のエネルギーのこと、プラーナやクンダリーニの研究と理解は私なりに進みました。しかしこの時、ヨーガの密議のオモテの側である顕教的な側面には目を向けることはなく、ある意味チャクラ瞑想やクンダリーニは性的悦楽を伴うヨーガである側面もあるため、もともと非常に揺らぎやすい私はもっぱらそちらの瞑想ばかりに傾いていました。

 そしてそんな11月末のある日の夜、就寝前にチャクラを観相する瞑想を行っていましたが、骨盤底のチャクラ、ムラーダーラーがガタガタと自然に反応し始め、この日は普段より力強いエネルギーが下腹部、丹田でとぐろを巻いて蛇が旋回するかのように上昇し始めました。蛇と表現されるクンダリーニは強い快楽を伴いながら駆け上がり、眉間のアージュニャ、そして頭頂のサハスラーラを駆け登るその時、目の前が真っ白になったのです。

 そしてしばらくして私はその後、夜も遅かったので床に入り眠りにつきました。                   
 

      
 第二章

 無垢の輝き


 朝目が覚めると、なぜか世界が輝いているのに気が付きました。本やテーブルやカーテン、あらゆる物がきらきらと輝いていたのです。
 私の部屋は普段と変わりはないにも関わらず、目に映る物は総て調和されているように見え、私は刷新された新たな世界というか、その輝く美しい風景をただ見つめていました。
 ふと本棚に目を向けると、以前駅前でキリスト教系の団体が聖書を無料配布していた時に手わたされた、新約聖書がひときわ注意をひいているようでした。私はこのもらった新約聖書をそれまで読んだことはなく、ただ本棚に置いていただけで関心はあまりなかったのですが、この時は不思議と親近感のようなものを覚えたのでした。
 私はこのまま、この部屋でこのきらきら輝く何とも表現しがたい、何事も欠けるもののない至福に満ちたこの部屋で過ごしていたかったのですが、その日は仕事があるので仕事に向かいました。                 
 
 そして外に出ると、このとき11月の末でだいぶ寒くなっていましたが、目覚めてから続いているこの幸福感は春のようで、外へ出てもその感性は揺らぐことはなく、私の身体の重力的な負担は気づけばほとんどなかったので、まるで雲の上を歩いているかのようでした。

 午前中の仕事は、秋の幼稚園の焼き芋行事で使うための落ち葉を園庭で集めていましたが、身体を動かしていると、自分の氣流の流れを視覚で感じるような感覚、と言えばいいのかわかりませんが、一つ一つの微妙な身体の動きに対するエネルギーの流れと、身体を動かしながらあたる緩やかな秋の風の流れは調和して、一体となっていることに氣付いたのです。

 そしてこの暖かみの富んだ輝く世界は翌日には徐々に水のようで、青く冷たい景色へと変化していくのでした。

    

 

青く冷たいほど澄んだ世界


 この青く冷たい水の世界の『冷たい』は、寒さの冷たさではなく、青色が澄み過ぎて冷たさを感じてしまうのです。
 
 そして翌日の仕事では自分と同じような周波数と言うか、想いによる共感とは違い、曖昧な言い方ですが波長が共鳴し合えるような人が学園内にどこにも見当たらなく、感覚的には同じ世界を共有しながら同じ世界を共有していない。
 ふと学園内にある樹木に目を向けると、自分が唯一共鳴できるのは植物だけであるように感じました。
 私はこの青く冷たく、そして静けさの広がるその世界に不安や恐れを感じず、ただ驚きと共になぜだかこの時に安心感を抱いたことを覚えています。

 私はもはや違う世界にいつの間にか入ってしまったようですが、あの幸福感は続き、私の心は満たされていたので孤独を感じることはなく、この新しい発見と世界にただただ魅了されていたのです。
 そして何もせずとも、それはヴェールが落ちたかのように、今まで私が気づいていなかった知恵のようなもの、見えていなかった情報の様なものが自然に頭に流れ込んでくるような感覚が現れ、そのことによって次第に気が付けば私は得意げになりはじめていたのです。

    

 

灰の匂い


 この出来事を兄や弟に話しましたが、私をよく知る兄弟なので何か普段とは違う雰囲気を感じとり、最初は半信半疑の様でしたが、次第に私の話を信じて聞いてくれたのです。
 そしてちょうどあの目覚めと共にあった輝く日から一週間がたったころ、すっかり私は以前の苦悩していた頃の自分を忘れ、新たな知識に得意げになり、その高揚も積もって次第に興奮しはじめていることに気づきました。
 その日の夜、部屋で兄とこの不思議な世界感について話していたのですが、言葉が止まらずに話し続ける私に兄も何か異変を感じとり、私もしゃべり続ける自分に違和感というか危機的な何かを感じていたので、そのことを兄に伝えたのでした。

 私はその時はじめて、あの輝いていた日以降に恐れを自覚し始めましたが、時はすでに手遅れのようでした。
 時間は深夜0時を越えたあたりだったと思いますが、ただならぬ高揚と同時に共に強い恐れを感じていたため、兄にもしこれで自分がこのまま話続けて狂い出し、死んでしまうようなことがあったとしても、それは進めてくれた本や瞑想のせいではなく、ただ自分自身の不徳が招いただけである。
 という趣旨の言葉を伝えていましたがその話しの最中に、頭の頭頂部がじりじりと熱くなり、次第にマグマのようなその赤黒い炎はゆっくりと滴れるように私の頭から体の中に流れてくるのがわかり、それを観ている兄もなにか通常ではない事が私に起きていることを感じ取りました。

 自体は一刻と変化し、言いようのない恐怖を感じながら身体に廻っていく熱の行方を、ただただ追うことしか出来ずにいると、その熱は次第に微細な針のようになり、感覚的には千の数に細分化されて身体中を廻り始めたのです。
 火のような熱さの中に鋭利な冷たさも感じるその針は、意思をもって心臓に向かっているかのようでした。針が心臓に到達することを恐れ、その針が氣流の流れに乗って心臓に到達しないようにするために、椅子に座っていることができずに身体を動かさざる得なくなったのですが、その時の動きはまるでタイの伝統舞踊のようでだったのです。

 そうしているうちに今度は、体が焦げるような匂いがしはじめるのと同時に、無性に体に灰を塗りたくりたいという衝動に駆られ、そして細くなりだした私の意識の中では暗くて小さく、狭い洞窟で無数にある屍らしきものと共にある、私の姿をしていない私が映り出されていたのでした。

 体力の消耗と時が経つにつれて、駆けめぐっていた針の勢いが徐々に弱くなりはじめると悪寒が走りだし、布団を敷いて横になったのですが、毛布を掛けても高熱時の悪寒の様にいくら掛け布団をかけてもほとんど体が温まることはありませんでした。この時すでに深夜3時をまわっていました。
 
 兄も私も病院では適切な対応ができないであろうと思っていたため、兄はインターネットでこのような瞑想についての事例や経験者、神社寺院などをくまなく明け方まで調べてくれました。そして弟も明け方に家に駆けつけてくれたのですが、私の様子と兄の様子をみて困惑したのでした。

 

 

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日いずる国の経 1

 

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2009年と2016年に著者が体験した中有(冥府)の世界での出来事。宇宙と子宮の神秘に隠された死と再生の体験を記していきます。09年、16年に私が観たこの2つのビジョンは異なった視点で表現されますが、それらは全く同質の事柄になります。この記録を通じて読者の方に何か伝わるものがあれば幸いです。

 

 

  第一章

  初めなければ  終わりなし

 

 私はいま、これまでに私の心に起こった不可思議な体験を記そうとふと思い立ったので出来る限りここに記すことにしました。
 私は今まで自身に起こったこの体験を話すことは極力、意識的にさけてきました。
 なぜならこの出来事は現実といわれるこの世界ではおそらく一部の方々にしか好まれないと感じていたし、何より本来なら師から口伝によって受け継がれているこの密教要素の強い話を進んで話すことや記す気が全く起こらなかったのです。

 しかし、なぜ今になってこの事を書き記そうということが起きたのかは正直なところ不明であるというのが率直な表現だと思いますが、あえて理由を上げようと努めれば、これから書き記す2009年と後の2016年に起こった冥府の世界、中有や黄泉ともいわれる世の体験から8年が経過したこともあって今が適切な時なのかもしれませんし、私がこれまで感じ取ってきた多くの喜びや、たくさんの悲しみのあるこの世界にとどまろうとする力が、今となっては自然となくなってきたように感じているからかもしれません。
 こう言うと私が命を絶とうとしているのかとご心配されるかもしれませんが、そうではなく「初めから生まれてもいないので、死は訪れない」というこの不二一元論者によく聞くこの理解が私自身に浸透してきたため、というのが実際のところです。

 そんな経緯で私が自身の体験を書き記すきっかけとなる明確な出来事が起こったのは、2009年に私自身に起こった瞑想体験から始まりました。始まったと言っても勿論はじまる前にもいろいろと予兆もあったのですが、振り返ってみれば私のそれまでの生涯はとても胸をはれるものでは無く、むしろ痛ましく情けないほどでしたが、その辺りも踏まえてから時を遡ろうと思います。

 2009年以前の私は20代前半では絵画や音楽が好きな人物でしたが、仕事もお金にも非常にだらしのない、高い煩悩にまみれた凡人であった為に、ふしだらな生活を送り続け、母親や兄弟にも友人たちにも多大に迷惑をかけて生きてきました。
 そんな職を転々とし、無責任な弟であるこの私を兄は見捨てずに一時期私と共に住みながら、目を向け見守ってくれていたのです。
 兄は当時ロックバンドを(弟と共に)結成して、少々本も読んでいたのですが、彼の当時の小さな本棚にはアレックス・グレイの画集やウィリアム・ブレイクの詩と並んで町田康中島らも攻殻機動隊などの本が並んでいたことを今、思いだして懐かしく感じます。

 そんな兄がわたしに初めて「この辺りの本でも読むと良いよ」と、当時の日本でも今でも超アンダーグラウンドな本であると言ったら失礼かもしれませんが、ロバート・A・F・サーマン教授の「現代人のための チベット死者の書」を進めてくれたのです

 これは当時の私の破滅的な生き方も、多少はマシになりかけていた頃の29歳辺りのことだったと記憶しています。
 けれどもなぜだかその時、そのチベット画の美しい観音菩薩の本の表紙を目にし、「こう言った本は本当の事が書いてあるから、もう少し後に読もうと思う」と勝手に?自然に?口から言葉が出たのでその時は、自分自身に理由の知れない違和感が心に沸き起こったので、このことは後にも頭の片隅にどこか残っていたのです。

 そんな経緯があった後でしょうか、私はそれまで漫画はたまに読みましたが、文字のみの書籍が苦手で読書をほとんどすることのない人間でした。
 それが図書館に通うようになり、賢いふりをしたかったのか、女性にモテたかったのかはわかりませんが、絵画や哲学書に目を向け、時には難解なスピノザなんかを手に取ったりしていましたが、小学校の2年生で勉強に見切りをつけて諦めてしまい、図工と体育にしか興味を持てなかった私にこの本は当時さっぱり意味がわかりませんでした。
 けれどいつも適当な行動を、直観だと聴き映えのいいように言って行動してきた私にとっては、これも必要な事だったのかもしれません。

 それからぱらぱらと図書館に通ったのですが、ふとチベット死者の書のことを思い出して、兄から進めてもらった翌年の6月に、改めて死者の書を手にとって読んでみることにしました。
 私は当時、幼少中高大一貫の学園で幼稚園の用務員の仕事をしていて、仕事も程よく安定していました。特に不満もなく続けていられたので時期的にもちょうど適切な頃だったのかもしれません。

 そしてチベット死者の書を読み始めましたが、その書物には人体を巡る氣流やナーディ、クンダリーニヨーガのことを、危険性がない程度に紹介として記され、そして後半部には「自然に解脱する書」という、日本でも四十九日法要で知られる中有の世界を、さらに具体的で詳細な描写で記されたお経が掲載されていました。
 私はバルドと言われるその冥府の世界には全く関心が向かずに、チャクラやプラーナなどのヨーガにもっぱら関心を注ぎました。

 当時の職場の昼休みが個室で、一人静かな部屋で過ごせたということもあり、軽い気持ちでなんの予備的な瞑想知識もありませんでしたが、昼の休憩時間に少し休んでから20分程の時間を瞑想にあてることにしたのです。

 そして始めてすぐに、瞑想という行為に親近感を感じ、なんだかこのこと(プラーナやチャクラのこと)は知っているという根拠のない思いが浮かんできました。
 昼の瞑想をはじめて3日目、椅子に腰を掛けて目を瞑って静かにしていると、突然果てしなく広大で、暗く深淵な空間が広がると同時に、自分の身体がシャボン玉のように無音で消失するのを見届けている、意識そのものであるという体験が起こり、その後チャクラの観想も始めましたが私にはヨーガを指導してくれる師がいないが為、何が危険なのかも理解しておらず、その後に訪れる危険性を認識することのないままに得意げになって楽しみながら、子供が遊ぶかのように真剣に遊んでいたのです。

                                                       つづく

 

 

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